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福岡県文化議員連盟会報に掲載

 佐々木小次郎豊前添田説〜岩石城(がんじゃくじょう)佐々木小次郎ウォーキングコースの探訪

福岡県文化議員連盟(文化議連)の会報(第27号)が出来上がってきた。原稿を依頼され、何のテーマにしようかと迷ったけど、あまり世間で知られていない「佐々木小次郎豊前添田説」を、是非、多くの皆さんに知って頂こうと思い、「彦山・岩石城と佐々木小次郎」の著者で、添田町郷土史会副会長の梶谷敏明先生に話を伺い、掲載させて頂いた。以下は原稿文です。

日本三大修験道の英彦山を抱える、我が故郷添田町には、歴史的ロマン、文化的遺産、数多くの伝説や神話が宿る。私の自宅(添田町殿町)は、岩石山(がんじゃくさん)の麓、桜の木々が2,000本以上もある添田公園の近くにある。その添田公園には、白山神社と添田神社が祀られていて、岩石山山頂には白山神社奥の院の石祠があり、天忍穂耳尊(アメノホシホミミノミコト)、白山比很拭淵轡薀筌泪劵瓮離潺灰函砲良Щ海虜弯世祭られている。ここに、戦国末を生き抜こうと、必死に修行した青年剣士がいる。佐々木小次郎である。「彦山・岩石城と佐々木小次郎(上)(下)」著者である添田町郷土史会副会長の梶谷敏明先生にお話を伺った。

1 添田説の論拠となる史料

「巌流島の戦い」で知られる佐々木小次郎は、平成15年のNHK大河ドラマ「宮本武蔵」の放映以来、豊前添田説が浮上した。これを契機に、豊臣秀吉の九州動座の彦山・岩石城をめぐる戦いと武将について調査した。

両者とも天正14年(1586)の秀吉による障子ケ岳・香春岳城攻め、天正15年の岩石城攻略、同16年の豊前一揆に関係の深い武将であった。

今までの通説と言われていた、豊田景英の「二天記」や吉川英治の「宮本武蔵」とは違って、細川藩小倉時代に、豊前・豊後・筑前で、活躍していたという史料を見いだした。

特に、「沼田家記」には、巌流島の決闘は剣豪としての戦いではなく、細川藩が藩政を強固にするため、密かに仕組まれたという史実は、今までの説を覆す論拠となった。

さらに、「岩流兵法伝書(英彦山高田家文書)・慶安3年の宇戸信綱兵法伝授書・智恩寺系図」などの発見は、小次郎の豊前添田説を浮揚させ、彦山修験道と細川藩剣術の密接な交流を知る貴重な史料となった。

武蔵と豊前に関する新史料として、福智町金田「常立寺(じょうりゅうじ)の棟札と墓碑」等の発見は、武蔵一族が豊前障子ケ岳・香春岳・岩石城の戦いに参加していることを裏づけている。

その後、武蔵一族は黒田藩士として、黒田の支藩である中津城・秋月城に仕えていた。慶長7年(1602)の黒田藩分限帳や慶長18年の「木下延俊日記」に、その武蔵の足跡が伺える。

2 岩石城と副田(佐々木)氏

  副田庄の土豪であった添田(佐々木)氏は、天文8年の白山宮縁起にある岩石山曾保  

     理神(そほりのかみ)を信仰していた。岩石城築城の時、戦乱をさけ吾勝尊あかつの

みこと(天忍穂耳命あめのおしほみみのみこと)と合祀(ごうし)し、西の山麓に移

し、添田明神として祀った。佐々木氏は、彦山修験と関係深い土豪で、秋月・原田・副田等の大蔵一族として活動し、天正16年(1588)の豊前一揆では、岩石城に立て籠もり、宇都宮とともに豊臣秀吉軍に抵抗した。

岩石城は小次郎の本拠地で、副田庄はその城下にあった。白山宮の元宮に残る楓(かえで)・高住神社・不動明王・白山宮奥院など、小次郎修行時代の景観が残されている。

そこで、平成5年のNHK「歴史発見〜仕組まれた巌流島〜」の放映記念として、「岩石城のウォーキングコース」を設定し、修行した時代の自然・史跡を訪ねるガイドマップを町で作成中である。今後、自然・史跡探訪のコースとして、標識や案内板などを充実させる。

3 彦山修験と佐々木小次郎

  ◎兵法書 慶安3年(1650)の宇戸信綱兵法伝授書(英彦山神宮文書)、天明2年

(1782)の佐々木巌流兵法伝書によれば、彦山山伏は武将であり、平素から兵法を

学んでいた。天正時代の兜や鎧、刀剣なども所蔵している。有事には、彦山や周辺の

戦国大名の家臣として合戦に参加した。

◎修験山伏の修行 山伏は全国の霊山を回峰修行した。例えば白山の修験僧阿吸房即傳(あきゅうほうそくでん)は、彦山豊前坊で修行した。広島の修験者司箭院興仙(しせんいんこうせん)は、京都で修業し管領細川政元の信頼を得ている。謡曲「花月童子」にでる花月は、彦山天狗にさらわれ全国の修験の山で修行し、京都で父と再開した。

◎白山信仰と花郎制度 韓国白山の檀君神話が流入し、彦山の白山大行事社として九州各地に広がった。韓国白山には美貌の少年を長とした花郎制度がある。

「祭り」には、祭事の中心としての役割を勤め、戦乱に備えては、国難に立ち向かう戦士として養成された。小次郎も同様に、武将(戦士)として修行したのであろう。

小次郎の修行場所は、岩石山から彦山にかけた険しい岩場である。小次郎の衣装は、山伏の鈴繋(すずかけ)に似ている。物干し竿といわれる長刀も、山伏の法杖が変化したものであろう。小次郎は彦山・岩石城で修行し、必死に戦国を生き抜こうとした青年剣士であり、武術と精神を鍛えた求道者であった。

注)英彦山と記すのは享保14年・1729年以後


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