近くて遠い史跡・旧跡巡り
福智町弁城地区の皆さんとの歴史・史跡巡りを年に1度行っている。史跡・旧跡や名所は、車で近くを通りながら、何となく時間もなくめんどくさかったりするもんだから、地域の歴史に疎くなってしまっている。僕をいろんなところに連れて行ってくれて、本当に歴史の勉強(?)をさせてもらっている。本当に見聞を広げ、教養を深めなければ、恥ずかしい思いをするなぁと感じる。今回は、英彦山から耶馬溪を抜け、玖珠・由布院へと向かった。 最初に向かったところは、高住神社から耶馬溪に抜ける道にある毛谷村六助(けやむらろくすけ)の墓。秀吉の前で角力(すもう)をとり、37人抜きをするほどの怪力であった六助は、加藤清正の家臣にとりたてられ、名を木田孫兵衛と改め、朝鮮出兵の(文禄の役)の戦場では、至るところで一番槍の功名を馳せたことで知られているという。また、六助の名が一躍人々に知られる事になったのは、大阪での歌舞伎上演(天明年間)「彦山権現誓助剣(ひこさんごんげんちかいのすけだち)」である。これは、恩師吉岡一味斉の仇微塵弾正(みじんだんじょう)を、恩師の娘お園の助太刀をして討つ物語として、あまりにも有名であり、大正時代には映画化もされた。ん〜ん!力持ちとは知っていたけど、全然知らなかったなぁ。 奥耶馬渓には、猿飛甌穴群(さるとびおうけつぐん)。ここもよく通り、看板は目にしていたけど、車から降りて見たことがなかった。今から千万年以上昔、第三紀中新世のころ瀬戸内海と有明海はつながっていて、この地域は海底でした。そのころ筑紫山脈の南岩に近い海底の溶岩が裂が噴出して、変朽安山岩と呼ばれるものになり、その後、数次にわたる他の火山噴出物の堆積地殻の隆起や水による浸水等の過程を経て、地表に露出してきました。それが今、眼の前にある多数の岩石です。本当に何とも神秘的な形状になっていて、先に行きと、高千穂峡を小さくしたようなところもあり、かなり見応えがある。 神尾家住宅も初めて見てきた。神尾家は、江戸時代に組頭をつとめていた旧家です。この神尾家住宅は、昭和55年3月、建築当初の姿に復元されました。建築年代は、復元工事中に柱のほぞから「明和8年卯7月」(1771)の墨書が発見されたことから、年代がはっきりしているものとしては、九州で最も古い民家と言われています。ここもなかなか足を運ぼうと思わなかった。本当に勉強になり、いいところに連れてきてもらった。 玖珠への途中に、来年度の大河ドラマ「軍師官兵衛」の家臣で、数多くの軍功をあげた、「黒田二十四騎」「黒田八虎」の一人に数えられた、後藤又兵衛の墓がある。皆さんからいろいろ教えてもらいなが、また、歴史の勉強をし直そうと思った。 帰りには、20年ぶりに小鹿田焼きに行ってきた。父がとても好きな場所で、定年退職した時に、一緒に訪れたけど、あの時と少しも変わっていなかった。とても懐かしく、いい視察旅行ができて本当に良かった。
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2013/07/17 21:30
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