神崎聡(こうざきさとし)夢からはじまる
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妻〜神崎育子 その2

昭和60年、麻生セメント入社。情報システム部に配属になる。どういう訳か上司から、麻雀にゴルフに誘われ、可愛がって頂いていたが、給料の殆どが費やされていた。その年、飯塚事業所(筑豊電算センター)の事務所が手狭になり、事務所を増設する話になっていた。それに伴い、地域に開かれたパソコン教室をつくるという。新入社員でありながら、「神崎お前に任せる」という上司の命令で企画を練り、独学でBASICを学ぶ。当時の情報システム部長と飯塚市教育長が親しかった事もあり、飯塚市内の学校の先生にパソコンを教えてくれないかと言われた。パソコンサークルを結成し、コンピュータ・リテラシーや教材開発を一緒に取り組むことになる。もちろん、学校が終わってからの活動であり、僕も楽しかったので残業なんかつけなく、ボランティアで行っていた。

そんな活動を噂で聞いていたとの事、田川郡教育研究所の指導主事から電話が入った。飯塚市柏の森の事務所に、田川郡教育研究所長、指導主事、それに妻の父、山本徳孝氏(元福岡県教育庁人事管理主事、添田中学校長)が来社された。「田川の子供たちのために、情報教育に力を入れていかないといけない。是非協力してくれないか。お金はありません。」という内容だったと思う。何故か自分の判断で、その場で承諾をした。でも、それを実行に移すには、直属の上司との葛藤、社内やグループ社の根回しをしなければならなかった。

(当時、田川郡教育研究所の所長は、僕の田川高校の同級生の父であり、妹同士も仲の良い同級生だったので知っていた。また、指導主事は僕の家の斜め前にあり、妻が生まれてから小学校までいた家であった。何とも不思議な出会いである。)


その他平成18年活動報告はこちらから>>

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