神崎聡(こうざきさとし)夢からはじまる
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天下分け目の戦い

大河ドラマ「どうする家康」もいよいよ「天下分け目の関ケ原」に差し掛かってくる。徳川家康を中心とする東軍と、石田三成を中心とする西軍の合わせて15万を超える日本を二分する大軍がこの関ケ原で激突し、豊臣の世から徳川の世に天下が移っていく。
今から400年以上前、ここを舞台に天下分け目の戦いが繰り広げられた。劇的に雌雄を決し、以降260余年に及ぶ泰平の世の幕開けとなった。壮大な歴史の一幕となったこの戦いは、最終決戦と銘打つ「天下分け目」の代名詞として、古今東西あらゆる場面で語られる。
徳川家康率いる東軍は、主に東国の大名を中心に、豊臣秀吉の子飼い福島正則や黒田長政なども含む総勢7万4千。一方の石田三成率いる西軍は、西国の大名が中心で、宇喜多秀家、小西行長、小早川秀秋など総勢8万2千。ちなみに、西軍の「名目上」の総大将は、石田三成ではなく毛利輝元。関ケ原の布陣を見ると、明らかに石田三成による巧妙な采配により、合戦当日は西軍が有利に布陣している。これにより、徳川家康ら東軍は西軍に周囲を囲まれる苦しい戦いを余儀なくされる。しかし、西軍には家康に内応して戦闘に加わらない大名も多く、やがてよく知られる小早川秀秋の裏切りによって均衡が破られると、わずか1日で東軍の勝利に終わった。
裏切りを躊躇していた小早川秀秋を動かしたのは、家康が鉄砲を打ち込んだという「家康の聞き鉄砲」だけではなく、実は毛利輝元の家臣の吉川広家とも言われている。家康の背後にあたる高地(南宮山)には、西軍約2万9千が布陣しており、その絶好の位置で戦いの様子をじっと見守り続けていたのが吉川広家であった。西軍チャンスに軍を動かすことなく、高地にいた同じ西軍の動きを完全に封じていた。また吉川広家は、西軍の総大将にかつがれていた毛利輝元を関ヶ原に出陣させずに大坂城に留め置くなど、明らかな西軍への妨害工作も行っていた。吉川広家は、東軍優勢の状況をつくり出したことで、結果として小早川秀秋の裏切りを誘発させた。


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